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まだまだスルーできない私

今回は、

  • Twitter‪物申すマンだった私の気付き
  • 気付きを踏まえても、私にTwitterは早い

こんな話をする。

私の勘違い(若気の至り)

私は大学生の頃、Twitterでトレンドに片っ端から言及し、何かしら意見を言わずにはいられない人間だった。

端的に言って、Twitter物申すマンだったのだ。

大学生の頃、お受験のための勉強から解放された私は、同じくらいの知的水準でよく似た問題意識の持ち主である友人と語らうのを好んでいた。

そんな中で、二つの価値観が醸成されていく。

①どんなに対立する相手とも本気で話し合ってこそ、良い結論を導き出せる

②思考停止は悪、全ては一度批判的に検討しなければならない

ある思想にかぶれているのが丸出しだが、ここでは触れない。

挫折と反省

そんな信条を抱えたままTwitterを続けて、ようやく私はあることに気付く。

当たり前だが、残酷な事実だ。

  1. 誰とでも話が通じるわけではない
  2. Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しない

「何当たり前なこと言ってんだ」と感じたかもしれないが、こんな当たり前のことを私はわかっていなかった。

①誰とでも話が通じるわけではない

話をしたところで、話の通じない相手というのは存在する。

それは、理解し合う力には差があり、前提となる知識の範囲にも差があるからだ。

私は、特にTwitterにおいて「理解し合う力」には二種類あると思っている。

ひとつは、文章を読んで意味を理解する力。すなわちインプットの力だ。

もうひとつは、自分の思考を正しく文章にするアウトプットの力だ。ここでは相手の知識に合わせて語る力や、分脈に沿った表現をする、いわゆる空気を読む力、「コミュ力」もアウトプットの力に含めたい。

インプットの力は、およそ国語のテストで評価できる能力だろう。

例えば、次のような問題があったとする。

ア~エの中から、次の文章の説明として最も適当な選択肢を選びなさい。

カラスは、日本人には黒い鳥として知られている。

 ア.日本人の多くは、カラスを黒い鳥だと思っている。

 イ.カラスは不吉な鳥とされている。

 ウ.パンダの尻尾は白い。

 エ.外国では、白いカラスが乱獲されている。

テストであれば、正解はもちろんア.である。インプットが正しいかは白黒つけやすい。

 

 しかし、アウトプットが正しいかは判別しにくい。

「カラスって白いよね」という発言にどんな対応をするのが正しいかは時と場合によるからだ。ここで、②Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しないという事実に気付く。

前提となる知識の差、というのは必ずしも優劣の話ではない。物理学者と哲学者のどちらが偉いかなんて私にはわからないが、いずれにせよお互いが専門用語を使って話しては理解し合うことは難しいだろうし、いちいち専門用語を解説してやるのもお互いに面倒だろう。

もちろん優劣もあって、例えば私は物理学者ほど物理に詳しい訳はない。だから私は、物理学者に質問をすることはあっても議論をふっかけることはないだろう。

しかし、自分の知識の範囲において専門家の発言を理解し、議論をふっかけたり攻撃を仕掛けたりできてしまうのがTwitterだ。

Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しない

Twitterをしている人にはいろいろ居るし、「科学的に」「理論的に」「誰かの経験的に」、あるいは「道徳的に」正しいことが全てという共通認識は無い。当たり前のことの筈なのに、私は理解するのにとても時間がかかった。

大学であれば、科学的に妥当とされている論文に反する主張は検証されるべきだし、理論的に正しくない事実は追究してしかるべきだろう。あなたの主催するセミナーであれば受講者の態度はあなたが規定すればいいし、哲学者同士の話し合いなら真・善・美の追究をすればいい。

とはいえ、Twitterは違う。

仮に女子高生が「カラスって白いよね」と呟いていたとして、必ずしも訂正させる必要が無いのだ。

客観的に見てカラスは黒いが、だからといって訂正してやる道理はない。

女子高生をおだてることに執心する野郎どもが「○○ちゃんの言う通り!白い!」と言っていたところで、その下心を糾弾する必要は無い。

もしかしたら病気なのかも? と思った所で、縁もゆかりも無い人間に眼科の受診を勧める必要は無い。

個人主義を前提に回っている世の中で、自分と縁もゆかりもない「間違ったやつ」を正す必要なんて、全く無いと筆者は思う。

Twitterは世界とつながっているから、発言には責任が伴う!」という主張には同意できる。しかし、「だからTwitterで正しさを追求するのは世界のためになるんだ!」と主張するのであれば、私は頷けない。

Twitterの正しくない人間を正すことは、大して生産的ではない。個人は所詮砂漠の砂の一粒に過ぎず、一粒拾ったところでなんの意味も無い。

そもそも、自分の持つ考えが本当に正しいかもわからない。

「カラスが黒い」というのは概ね確かだが、政治信条や価値観については「正しい」と言えるものはあるだろうか? 

前提となる特定の価値観がある集団であれば、正しくない発言というのもあるのであろう。たとえばヒューマニズムに最高の価値を置く集団であれば、残酷な発言は修正すべきだろう。しかし、それは集団の外に適用することはできない。

個人主義と情報発信

ここまできて、一体何を語るべきかわからなくなってしまった。

私としては「Twitterで議論するのは不毛だし、不快な話題をつぶやく・RTする人間はミュートするのが吉。ミュートできないなら生暖かく見守るという『人力ミュート』」という意見を持っているわけだが、それを主張するにしたって大抵の人にとってはおせっかいであることに変わりはない。正しいTwitterの楽しみ方を心得ている人だって居るのだろう。

あるいは、思考停止は悪であり、議論によってよりよい意見に到達できるという考え方は間違っておらず、それを貫けず諦めた私がもう諦めろと訳知り顔で触れ回っているのは、未だにその信条を貫いている人からすれば滑稽なのかもしれない。

とりあえず、Twitterで自分のしていることを否定されたり説教されたりした(気がした)ときには、この言葉を思い出している。

 

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こうの史代(2008 双葉社)「この世界の片隅に 中」P69

FF外から説教されるとひどく不幸な気がするものだ。同時に、私の親切心からのリプもありがた迷惑で、相手からすれば不幸だったのだろう。

鼻をかむのにも使えない記事だが、最後まで読んで何かの参考になったとしたら幸いである。