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訳ありの記事がお手頃で

死なないし何もできない(古い下書き)

こんな記事を読んだ。

糖尿病に罹り、まず右目を失明、それから両脚を失い、透析になるまでが記されたブログ。

自分の意思の弱さを自己嫌悪しつつも楽観をやめない筆者の鷹揚さは魅力的だ。実際友人も多いことがわかる。しかしその性質ゆえに酒を絶てなくて病状が悪化していく。

とにかく、Wikipediaではわからない病人のリアルがわかる。

 

そういえば、私も闘病記を書いていた。

それは確かに闘病記だった。批評ではなく、私の主観性と感情があった。

 

発病してから3年程経った。

最新の医療のおかげで病状は進行していない。

とはいえ薬の副作用は激烈で、私の体調にはよろしくない変化がいくつもあった。

免疫をいじくったせいか、これまで出ていなかったアレルギーがいくつも出たし、アラサーにしてアトピーを発症した。

アトピーはしんどい。痒いのはイライラするし、肌が荒れ放題なので一目見て不健康とわかる。

近頃はsyamuさんに同情しないでもない。

 

発病すると平均して10年寿命が縮むらしい。ほっといたら死ぬのを強い薬で生かしているのだからむべなるかな。

だからこそ悔いなく生きたいとは言うものの、死を身近に感じるからといって急に何かに目覚めたりはしない。

人生を変えるために必要なのは地道な努力であり、このままの人生では悔いが残ると自覚したとて、急に人生を変えるのは難しいらしい。

少なくともYouTubeで副業を勧めてくるCMやら、金の束縛から自由になろうと謳うビジネス書やらに踊らされる人達よりは冷静でいるつもりだ。とはいえ、大人気なくも「ここではないどこか願望」に取り憑かれているという点に違いは無い。私は問題を混ぜっ返して悲劇のヒーローぶっていただけだ。

 

病人特有の困難は確かにある。

しかし、現状と、現状のまま過ごすことになるであろうあてどない年月への憂いは、多分病気とは関係ない。

たぶん、真に呪うべきは病気でも職場でも景気でもなく、自分の主体性の無い生き方だ。病気になったショックで真剣に人生を考えて、これまでの無軌道な生き方を自覚できた。

とはいえ何もできない。テストでいい点を取っていい学校に入ってそれなりの会社に勤めることが自分にとってただただ虚しく辛いと気付いたところで、それに代わる価値観が用意されているでもない。用意されていなくとも、大抵の人は自分の価値観があてにできる、あるいは自分の領分を決めてそれ以上は考えもしないのだろう。だが私には強固な価値観や断固たる意志があるでもないし、かといって他人の判断を鵜呑みにできるほど素直でもない。

だからこそ、周囲でもてはやされていた価値観に従って勉強して、周囲に立ち込める焦燥感につられて就職してきた。そして人生につまずいて初めて自分の空虚さに気付いてしまった。

 

いっぱい文章を書いたが、こんな話には先のブログにあったような生の感情はない。

私は行動を伴わない、自己に対してすら視線を向けるばかりの自分を、何でもよそから仕入れた価値観に則った物言いしかできない自分を憎悪している。

(尤も、胸を張って生きていられる人はたまたま人生がうまくいっているからそういった疑問に絡め取られていないだけで、誰かから借りてきた価値観を自分の価値だと盲信する自己欺瞞を徹底しているだけなのではないかという疑いも拭いきれずにいる)

それでも散々分析と批評を繰り返し、人に読んでもらいたくて公開してしまう私は、酒が悪いとわかっているのに飲んでしまう人と本質的に変わらない。

わかっているのにやめられない。

 

スーダラ節

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  • 発売日: 2015/07/22
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