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雑多な話(21/08/08)

周りに日記記事を書いている人が多いのを見るにつけ、珍しく日記をつけてみた(土佐日記)

トリビアと自説の開陳に関する自分語りと自説の開陳

別館的なブログで書いた記事に関連する話です。

 

これに書いた経験以来、トリビア・自説の開陳というコミュニケーションの形についてよく考えるようになった。

 

私はトリビアや自説の開陳を楽しく聞ける方だ。というか、感情ベースの会話がそんなに得意じゃない。

私は分析や感傷のような自己の内に完結する精神的営みを好んでいる。その一方で、相手の発言の裏に隠れた感情を読み取るとか、それに応じた言動・表情を素早くしてみせるといった、外界とのコミュニケーションは苦手な自覚がある。

また、確固たる主体を持っていないことも自覚している。さまざまな主義主張に関する情報を仕入れている一方で、いずれかに対する思い入れはそんなに強くない。現状に対する誇りもないので、明かすのは気が進まない。

故に、自己開示を必要とするコミュニケーション、いわゆる「雑談」の場が苦手だ。

一方で、オタクの集まりは心地よい。関連知識の披露のし合いが基本となるので、自分の感情の率直な表現や相手自身への理解が大して必要ないからだと考えている。また経験上、議論を嫌うオタクは少ないし、議論の内容を人格否定に結びつけるオタクも少ない。

 

オタクコミュニケーションが平気なら、おじさんのトリビア・自説の開陳も平気で聞ける筈だ。なぜそうならなかったのか?

多分、相手への承認が無いからだ。知ってるオタクは好きだが、知らんおじさんはどうでもいい。

ますトリビアトリビアの開陳→承認というコミュニケーションの最たる例は、親子の会話だろう。

「みてみて!アオスジアゲハ!」

「そうね、○○ちゃんは物知りね」

これは多分一方的に相手を承認する形式で、親子やそれに類する関係でないとできない。トリビア単体でのやり取りは、お互いがお互いのママをやることに不快感の無い関係でないと難しいのではなかろうか。

 

一方で自説の開陳は、相手が議論好きと知っていれば議論に進めることができないでもない。

世の中、議論と人格否定を別に扱える人間ばかりではない。「本当のところどうなんでしょうね?」という問いかけを不快に思う人もいる。

おじさんがオタクほど議論好きとは限らない。議論をふっかけると不快にさせる可能性があるので、私は議論をふっかけない。

不快にさせない方がいいのは、儒教道徳などではなく、起こりうる面倒を恐れるからだ(口ではそう言っても、本当のところ単に従順や臆病のせいかもしれない)。

 

あいつらはおじさんパワーを振りかざして相手にママをやらせようとしている!

 

そんな話を、女子に延々と彩雲の光学的仕組みを説明する男を見ながら考えるのだった。

って凄い「気付き!」でしょ!褒めて褒めて〜!

 

パパ

昼過ぎから、外で楽しそうな子供の声がした。

洗濯物を干しにベランダにで出てみると、アパートの駐車場に、一畳よりゆうに広そうな大きなビニールプールが置かれ、若い父親が小さな息子と娘と遊んでいた。

大きなプールを物置から出して、せっせと膨らまして、水を張って遊んであげるって、愛無しにはできないだろう。素敵な家族だ。