雑多な話 勉強とケモ夫人(21/10/30)
「勉強」←つよそう
「勉強」という響きがいかつすぎる。
「おやつ」「おめざ」「おさんぽ」「おひるね」「たんぽぽ」みたいな、優しい響きの言葉で置き換えたらもっとモチベーションが上がりそうなのだが。
「勉強」の字からして「勉める」「強いる」と基が進まない雰囲気を纏っているし、実際語源はそうらしい。
とはいえ知識の摂取、技術の習得に伴う忍耐や自律のイメージは言葉自体だけではなく、これまで触れてきた文脈によるところも大きいのであろう。小学生くらいの頃は、勉強はいつも外的な承認(=点数と順位)という報酬とセットだったため好きでたまらなかったが、高校生ぐらいからは勉強はしたいことをするために耐えなければならないものだった。瞬間瞬間で知的好奇心をくすぐられることが無かったでもないが、そうやってのめり込んだ結果構造決定のオタクになっただけで点数には繋がらなかった。
学校教育の構造について語ると学歴神話の崩壊、似非科学・反知性主義の跋扈について語りたくなるが、語っても仕方ないしこのへんにしておこう。
ケモ夫人
ケモ夫人 第一話 pic.twitter.com/vQzUbzeYlu
— 藤想@コミティアB10b (@kanon_pic) October 27, 2021
一見意味不明だがすごく普遍的なテーマを扱っている気がする。
人生に物語性はなく、劇的なものはめったにない。
そういう投げ出された感から目を逸らしたいからこそ、物語には説得力のある使命や因縁を求めてしまうのでは?
人は生んでくれと頼んでいないのに気づいたら存在している(cf.ミュウツーの逆襲)し、存在してしまっているがゆえに存在し続けるための戦いを強いられる。ちょうちょしか捕ったことのないお嬢様というケモ夫人の人物造形は、生きるための戦いを外部化してその場しのぎで生きている人の暗喩なのだろう。
そんな彼女が唐突に斧を持たされる脈絡のなさは、かえってリアルに現実の「投げ出された感」を表現している気がする。