無選別

訳ありの記事がお手頃で

雑多な話(21/10/06)

跡部

先日またリョーマ!を見てきた(2リョーマ!目)

リョーマ!を見て以来、ふいに跡部様の声が胸に呼来することがある。

「逃げて回って掴んだ栄光なんて、俺様にとっちゃ無価値」

「今の自分を誇れるか誇れないか、ただそれだけだぜ」

かなり励みになるアツい言葉だ。大学のテストで不可になりそうな時は迷わず途中退席し欠席扱いにしていた私は身につまされる。

跡部様のように全てに正面からぶつかって生きられる程強くはない。それでも、誇れる自分になるために後一歩踏み出したい、立ち向かいたいと思うことのある私にとって、何度でも聴きたいセリフである。

『ポスターでも貼って、跡部様を思い出すことで自分を鼓舞してみようか……』

そんなふうに考えたところで、雌猫の皆様はこういう動機で跡部グッズを集め、大量のハガキを書いたりしていたのかも……と想いを馳せた。どうなんだろう?

ポスターは貼らないが、サントラは買いたい。

 

今回付き合ってくれた割とテニプリに詳しい友人は、「時を越えて大して親交の深いわけでもないライバル校の部長に電話が繋がってアドバイスされる」という展開にバカウケしていた。跡部の声がしてリョーマが嫌な顔をしたのは、何かされたとかではなく単に癖の強い奴認定しているからとも教えてくれた。面白すぎる。

現実を手繰り寄せて

何をしても無駄で、大きな状況に流される方がいい、と思うことは結構ある。

というか、私は本来人間に自由意志などないと思っている。自分で決めたと思っている選択も、生育歴や受けた教育、見た広告などの環境要因に決められているところが大きくて、結局は外部からの干渉の積み重ねで人の意思は決まるのではないか。

現実は複雑であり、因果は大抵一対一で対応しない。頑張ったからいい結果が得られる、努力した結果いい結果が得られるという論理は大抵事実に即していない。試合に勝てるのは対戦相手の朝ご飯が傷んでいたからかもしれないし、大学に受かるのはたまたま小学校時代にトイレで手を洗わなかったからかもしれない。現実の現象に、法律の演習問題や教科書の科学実験のような明確な因果はない。

それでも人が人生は自分で選んでいると言うのはなぜか。そのような規範と法律が存在し、大多数が因果をはっきりさせる世界観で生きているから、そうでない考えでは社会に馴染まないのだろう。

そこまで客観視できても、私はやはり「個人の判断は無意味」とは思いたくない。

現実にはあまりに色々な要因が複雑に絡み合っていて、ひとりの人間に掌握はおろか把握することすらままならない。しかし、その事実をそのまま受け止めたとき見えるのは、何を決めても何も変わらない、死んだ世界なのではないだろうか。諦観しないためにも、選択によって起こったことの結末を見届け、己の選択の結果として受け止めたい。

だからこそ、登場人物が「仕方ないから」と言い訳をせず「夢だから」「役に立ちたいから」「ゾクゾクするから」「好きだから」という動機にまっすぐ踏み出す「リョーマ!」の世界観と、それを応援してくれる劇中歌の歌詞が心地よかった。