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訳ありの記事がお手頃で

雑多な話(21/10/04)

鷹揚になりたい

以前、知識の羅列がベースの情緒的でないコミュニケーションは承認していない相手に擦られるとうざいという話を書いた。

では私が現実で共感ベースの会話ができているかというと……全然できていない!

近頃は友達の「人は寂しがり屋の猿」というスピッツの引用に「猿の部分ももちろんあるし、それも含めて人だとは思うけど、それが人の全てとはまだ受け入れられないかな」とマジレスした。わざわざ打ち返しやすいボールを投げてもらって特大ファールを飛ばした形である。

価値観へのこだわりや自意識に囚われないで、鷹揚にコミュニケーションを楽しみたいが……訓練あるのみか。

もっと内なるギャルを育てて「わかるー笑」「いいじゃん笑」「スゴくない?笑」をうまく振っていきたい。

価値観へのこだわりや自意識、自分の気持ちを否定するとかではなくて、TPOと相手に応じた会話スタイルの択を増やしたい、という話。

リスニング

昨日のTOEICはリスニングにまるで全く自信がない。というかなんだ。YES/NOで答える質問にはYES/NOで答えてくれ。ビジネスなんだろ。

散々受験してきたがここまでやらかした感があるのは久しぶり。単語をやりまくったおかげかリーディングはできたので、次回まではリスニングを足す。

パス

TOEICの会場は相変わらず間隔を空けている。長机に一人飛ばしで座る状況で、一列に三人。私は真ん中。

そんな中、試験官が長机の端から全員に手渡しで問題用紙を配ろうとしていた。当然端までは届かない。試験官は困る。奥の女子も困る。すかさず問題用紙を取って中継……

しようとした所で、コロナ禍で他人が触るのはどうなんだと逡巡する。居酒屋のおしぼりのように、善意のつもりで中継するとむしろ迷惑なのではないか。隣の女子は消毒しまくるタイプの人ではないか。

この間1秒ほどで、結局中継した。試験官も女の子もお礼を言ってくれたのでまあ安心したが、帰った後あの子は手の皮が剥けるくらい消毒しているかもしれない。

UT

東京大学ではなくてユニクロのTシャツ。

2001年宇宙の旅などのSFデザインやタバスコロゴなど、時折やたらいいのがある。

友人がユニクロに行くというので、いい出会いを期待して行ったが……定価(1500円)は高い。

ウォーホルの石鹸なんか良かったが、1500円で買う気にはならない。

やはり半年後とかでワゴンセールが狙い目か。

現在の売れ残り値引きワゴンには時かけ細田守、YOASOBIのデザインが投げ売りされていたが、食指が伸びなかった。

「若干外した感じの、間抜けとカッコいいが絶妙なバランスのやつか、わかる人はわかるけどマイナーなやつがいい」と伝えると、ポケモン好きの友人がエビワラージュゴンカイリュー、ゲンガーのTシャツを指して「これとかわかる人しかわからんだろ、初代四天王」と言っていた。彼レベルがそこそこいるならそれでいいが、ただ着ていてもただのポケモンである。

彼は初代御三家の絵を見て「アドバンスリメイクの時の絵柄だな」と言っていた。キャラクタービジネスや競技を超えた真オタク領域を垣間見た気がする。

だるい

びっくりするほど何も手につかない日。全部どうでもよく感じて勉強が捗らない。

筋トレに行こうにも暑い。10月だぞ?

とはいえそういうダルさの処方箋はやることだけである。そう他人にも吹聴して回っているという事実が私を追い込む。

これ、チャンスか?(生存者バイアスクソマッチョ)

今から筋トレをして、夜に勉強をする。

追記(19:14)

行ってきた。私はひとつのマシンで1セットやったら次のマシンに移って別の部位を鍛えているのだが、インターバルでやたら長いこと休んでいる人のせいで「背筋だけ延々と鍛えられない」みたいな事態が発生するのは癪だ。座るためにフィットネスルームに来てるのか?(既に鷹揚さを欠いている)

雑多な話(21/09/24)

Seriaの画面保護シート

セリアの「ゲーム用画面保護シート」と銘打たれたiPhoneの画面保護シート(画像がどこにもない)は最強。

・ノングレア

・指紋でテカらない

・さらさら手触り

これで100円はおかしい。いや、電気屋や携帯ショップの商品が高すぎるのか……?携帯ショップはぼったくり商品を流れで買わせようとするな。

リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版(Glory)

ヤバい。最初の3分を見て面白いでもおかしいでも熱いでも何か感じたなら見に行くべき。

私はそれほど熱心なファンではないしテニプリは中学校以来なのだが、ファンサービスてんこもりなのが分かって妙な満足感がある。何より力技感がすごい。

茶店のデカいパフェを頼んだら、知らないフルーツがぶっ刺さりまくったパフェが出てくる感じ。

客「いいんですかこんな盛って!?」

店主「お客さんが喜ぶなら!」

客(何だこれ……まあ美味しいですけど……)

店主「……あ、これ忘れてた!(フルーツを刺す)」

客「えっ!?!?? wwwwww」

こんな感じ。

みんな歌が上手いし曲もいい。……そもそもなんで歌うのか? いいじゃん面白いし!

「世界を敵に回しても」は間違いなく名曲。

跡部様が驚愕の登場を果たすのだが、これが本当に力技で笑うしかない。

跡部様と同じくらい目立っていた王者立海のメガネ(後で調べて柳生という名前を思い出した)は別に跡部様に並ぶ人気があるとか物語のキーパーソンだとかではないらしい。ハテ……。

テニヌ要素は薄めだったが、店長が次から次へとファンサービスを盛ってくるせいで、テニヌが無くともぶっとび感、謎の面白さがある。

スタッフロール後の追いファンサービスもある。(ネタバレだったら消します)

終了後、席を立つ観覧者が皆笑っていたのが印象的だった。実際笑うしかない。面白いと楽しいしか無い。

「お客さんを楽しませよう!」という意図しか見えない高濃度エンタメ作品だった。

同伴した友人は「君の名は。」を「内容が薄い。カップルが観てセックスに持ち込むための映画」と評していたが、「リョーマ!」のあまりの吹っ切れ具合は、彼をして「こんなん面白い以外ないだろ……長文レビューを書くのすら憚られる」と言わしめた。

あまりに自由な作りのせいで、これまでの映画を表現する語彙ではどうしても足りない。

リョーマ!を見ていない君はまだ縛られている。映画館で本物の自由を感じてみないか?

光明

病んでいるのがあからさまで封印しようとしていた記事を公開した。

心境の変化があって、そんな難しく考えることもないのかな、と思えてきたからだ。

入院(一年半ぶりn回目)

また入院していた。

検査入院みたいなものなので、大して気落ちはしていなかった。

入院するのは何度となく入院してきた病棟。もう別荘みたいなものだ。一日三千いくらで三食飯付き。

コロナ禍の最中なのでPCR検査が必要だった。手続きに誤りがあったとかで、お医者さんと軽く雑談していた。かなり若く見えたが私より歳上と聞いて驚く。これぞマスクの威力。

鼻に綿棒を突っ込まれると、同じ側の目だけから涙が出てくるのが面白かった。

試料を採取されたらプレハブ小屋に移される。一畳ばかりの部屋が5つほど横並びに並んでいる。各部屋の正面には壁がなく、代わりにビニルカーテンで外界と隔てられている。中にはソファが置いてあり、一部屋ごとにエアコンがついている。同じタイミングで案内されたおばちゃんと二人で「随分ものものしいですね」などとおっかなびっくりしていた。

30分程後に結果がわかり、陰性。病棟へ上がっていく。

病室ガチャ

入院初日の担当の看護師は新人だったらしく、「本お好きなんですか?」「私もです、読んでると時間忘れちゃいますよね〜」「お勉強されてるんですね。先生なんですか?」などと積極的にコミュニケーションを取ってきキュンキュンした。患者を観察して話すきっかけを見つけ、うまく関係を作るように学校で習うのかもしれない。キモいことは隠す。

今日の担当看護師は可愛くて嬉しい!当たりとして、もっと重要なことがある。

同室の患者だ。

病室は4人部屋で、期間中ずっと一緒の可能性がある。あとの3人が不機嫌にならないこと、管を引っこ抜いたり看護師に当たったりする不快な人でないことは、安眠と精神衛生のためにとても重要だ。実際全てを兼ね備えた大害悪が同室だったときは最悪だった。

今回はというと、皆割りかし静かで良かった。

向かいの部屋の初老の男性は声がデカかったが、機嫌が悪くはないので大して不快でもない。今回は当たりだ。

と思っていたら、いびきと寝言が全員クソうるさかったが。まあ、イヤホンでカバーできるのでセーフ。

向かいの人

向かいのちょっと声のデカいおっさんは、いつもカーテンを締め切っているのでわからないものの、どうやら首から下が麻痺しているようだった。食事時に看護師に助けてもらっていた。お手洗いに行くこともできないらしく、排泄はおむつにし、その度に看護師を呼んでいた。ベッドの硬さに文句を言ったり(床ずれ防止のため、寝返りを打てない患者のベッドはエアマットでフニャフニャだ)、家族との面会ができないことに文句を言ったり、耳かきをしてもらったりと色々注文が多かったが、何かしてもらうごとに「ありがと↑う」と関西弁イントネーションで言うので憎めなかった。でも看護師から「業務の範囲じゃない」と言われつつも耳かきをしてもらっていたのは許せん。

看護師とデカい声でよく話すので、数日したらいろいろわかってきた。バイクとバス釣りが趣味で、退院したらまたバイクで釣りに行きたいらしい。半身の自由を失ったら、生半可には叶わないであろう希望。

はっとした。

いきなり麻痺になったらもっと落ち込んで、恨み言でもしそうなものだ。私も看護師に当たりこそしなかったが、家族に対してはかなり情緒不安定だった。このおっさんにはそれがない。

上手く人を頼り、先を見て生きている。素敵だと思った。

もっとも、彼の願いはどうせ叶わないという憐れみも強かったが。

 

ある日、向かいのカーテンの中から「あれ、届かん……」と声が聞こえてきた。「ナースコールですか? 看護師さん呼びましょうか」とカーテン越しに聞くと「お願い」とのことなので、代わりに自分のナースコールを押し、事情を説明した。

「プリンくん、ありがと↑う。助かったわ。ありがと↑うねえ」と礼を言われたとき、久しく忘れていた類の喜びを覚えた。

またある日に聞こえるには、これまでご飯を食べさせてもらっていたおっさんが、自分でフォークを使って食べているようだった。

驚いた。そんなに治っていくものなのか。

目標があると治りが早いというのは事実のようだ。

別の日、鳴っている携帯電話に手が届かずに居る彼に声をかけて助けに行き、初めて顔を見た。入院が長いようで髪が伸びていたが、身なりを綺麗にしたら堺正章に似ていそうな、細身で笑い皺のある人だった。

カーテン越しに、もう携帯を手で持てるのを祝福したら、再三看護師に話しているのでよく知っているバイクの話をしてくれた。片手じゃまだ乗れないというので「もう片手ならそのうち両手、その次は足じゃないんですか」と励ましておいた。

本心からの希望だった。またバイクに乗って欲しいと、心の底から願っていた。

光明

元々長引く理由もない私は、当然おっさんより先に退院を迎えた。

「今日で退院なんですよ、今までありがとうございました」と伝えると「良かったなあ。こちらこそ。俺はなんもしてへんけどな」と言うので、「○○さんが前向きだから、頑張ろうって思えました。バイク乗れるといいですね。早く良くなるといいなって思ってます」ときちんと伝えられた。同じ部屋になれて幸いだった。

聞いたところバイク事故ではなく、ウイルス性の神経炎だそうだ。元々手先の痺れで、整形外科に行っても原因がわからず、手先以外もあまりに痺れるようになり、総合病院に来たら即日入院だったらしい。小さな病院のせいで発見が遅れる、私と同じパターンだ。単科の病院も他科の病気の可能性をちゃんと検討してほしい。

最後にいろいろ話をした。彼の釣りスポットは無理なく行ける距離だったので、夢が叶ったらたまにそこに行くと伝え、共に再会を願って別れた。

半年でまたバイクに乗りたいと言っていた。できるかなんて分からないが、きっと彼は乗れるようになるまでリハビリに励めるのだろう。

 

ベッドにもたれて隣の部屋に向かって話す私を見て、書類を渡しに来た看護師が何やら得心したようだった。

理由を笑いながら教えてくれた。

ナースステーションでは、私は一人でしゃべっている変人扱いされていたらしい。

スターイーター

だからあなたは 落ち込んでいる時にこそ 他の落ち込んでいる人をはげましなさい

死なないし何もできない(古い下書き)

こんな記事を読んだ。

糖尿病に罹り、まず右目を失明、それから両脚を失い、透析になるまでが記されたブログ。

自分の意思の弱さを自己嫌悪しつつも楽観をやめない筆者の鷹揚さは魅力的だ。実際友人も多いことがわかる。しかしその性質ゆえに酒を絶てなくて病状が悪化していく。

とにかく、Wikipediaではわからない病人のリアルがわかる。

 

そういえば、私も闘病記を書いていた。

それは確かに闘病記だった。批評ではなく、私の主観性と感情があった。

 

発病してから3年程経った。

最新の医療のおかげで病状は進行していない。

とはいえ薬の副作用は激烈で、私の体調にはよろしくない変化がいくつもあった。

免疫をいじくったせいか、これまで出ていなかったアレルギーがいくつも出たし、アラサーにしてアトピーを発症した。

アトピーはしんどい。痒いのはイライラするし、肌が荒れ放題なので一目見て不健康とわかる。

近頃はsyamuさんに同情しないでもない。

 

発病すると平均して10年寿命が縮むらしい。ほっといたら死ぬのを強い薬で生かしているのだからむべなるかな。

だからこそ悔いなく生きたいとは言うものの、死を身近に感じるからといって急に何かに目覚めたりはしない。

人生を変えるために必要なのは地道な努力であり、このままの人生では悔いが残ると自覚したとて、急に人生を変えるのは難しいらしい。

少なくともYouTubeで副業を勧めてくるCMやら、金の束縛から自由になろうと謳うビジネス書やらに踊らされる人達よりは冷静でいるつもりだ。とはいえ、大人気なくも「ここではないどこか願望」に取り憑かれているという点に違いは無い。私は問題を混ぜっ返して悲劇のヒーローぶっていただけだ。

 

病人特有の困難は確かにある。

しかし、現状と、現状のまま過ごすことになるであろうあてどない年月への憂いは、多分病気とは関係ない。

たぶん、真に呪うべきは病気でも職場でも景気でもなく、自分の主体性の無い生き方だ。病気になったショックで真剣に人生を考えて、これまでの無軌道な生き方を自覚できた。

とはいえ何もできない。テストでいい点を取っていい学校に入ってそれなりの会社に勤めることが自分にとってただただ虚しく辛いと気付いたところで、それに代わる価値観が用意されているでもない。用意されていなくとも、大抵の人は自分の価値観があてにできる、あるいは自分の領分を決めてそれ以上は考えもしないのだろう。だが私には強固な価値観や断固たる意志があるでもないし、かといって他人の判断を鵜呑みにできるほど素直でもない。

だからこそ、周囲でもてはやされていた価値観に従って勉強して、周囲に立ち込める焦燥感につられて就職してきた。そして人生につまずいて初めて自分の空虚さに気付いてしまった。

 

いっぱい文章を書いたが、こんな話には先のブログにあったような生の感情はない。

私は行動を伴わない、自己に対してすら視線を向けるばかりの自分を、何でもよそから仕入れた価値観に則った物言いしかできない自分を憎悪している。

(尤も、胸を張って生きていられる人はたまたま人生がうまくいっているからそういった疑問に絡め取られていないだけで、誰かから借りてきた価値観を自分の価値だと盲信する自己欺瞞を徹底しているだけなのではないかという疑いも拭いきれずにいる)

それでも散々分析と批評を繰り返し、人に読んでもらいたくて公開してしまう私は、酒が悪いとわかっているのに飲んでしまう人と本質的に変わらない。

わかっているのにやめられない。

 

スーダラ節

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  • 発売日: 2015/07/22
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雑多な話(21/08/08)

周りに日記記事を書いている人が多いのを見るにつけ、珍しく日記をつけてみた(土佐日記)

トリビアと自説の開陳に関する自分語りと自説の開陳

別館的なブログで書いた記事に関連する話です。

 

これに書いた経験以来、トリビア・自説の開陳というコミュニケーションの形についてよく考えるようになった。

 

私はトリビアや自説の開陳を楽しく聞ける方だ。というか、感情ベースの会話がそんなに得意じゃない。

私は分析や感傷のような自己の内に完結する精神的営みを好んでいる。その一方で、相手の発言の裏に隠れた感情を読み取るとか、それに応じた言動・表情を素早くしてみせるといった、外界とのコミュニケーションは苦手な自覚がある。

また、確固たる主体を持っていないことも自覚している。さまざまな主義主張に関する情報を仕入れている一方で、いずれかに対する思い入れはそんなに強くない。現状に対する誇りもないので、明かすのは気が進まない。

故に、自己開示を必要とするコミュニケーション、いわゆる「雑談」の場が苦手だ。

一方で、オタクの集まりは心地よい。関連知識の披露のし合いが基本となるので、自分の感情の率直な表現や相手自身への理解が大して必要ないからだと考えている。また経験上、議論を嫌うオタクは少ないし、議論の内容を人格否定に結びつけるオタクも少ない。

 

オタクコミュニケーションが平気なら、おじさんのトリビア・自説の開陳も平気で聞ける筈だ。なぜそうならなかったのか?

多分、相手への承認が無いからだ。知ってるオタクは好きだが、知らんおじさんはどうでもいい。

ますトリビアトリビアの開陳→承認というコミュニケーションの最たる例は、親子の会話だろう。

「みてみて!アオスジアゲハ!」

「そうね、○○ちゃんは物知りね」

これは多分一方的に相手を承認する形式で、親子やそれに類する関係でないとできない。トリビア単体でのやり取りは、お互いがお互いのママをやることに不快感の無い関係でないと難しいのではなかろうか。

 

一方で自説の開陳は、相手が議論好きと知っていれば議論に進めることができないでもない。

世の中、議論と人格否定を別に扱える人間ばかりではない。「本当のところどうなんでしょうね?」という問いかけを不快に思う人もいる。

おじさんがオタクほど議論好きとは限らない。議論をふっかけると不快にさせる可能性があるので、私は議論をふっかけない。

不快にさせない方がいいのは、儒教道徳などではなく、起こりうる面倒を恐れるからだ(口ではそう言っても、本当のところ単に従順や臆病のせいかもしれない)。

 

あいつらはおじさんパワーを振りかざして相手にママをやらせようとしている!

 

そんな話を、女子に延々と彩雲の光学的仕組みを説明する男を見ながら考えるのだった。

って凄い「気付き!」でしょ!褒めて褒めて〜!

 

パパ

昼過ぎから、外で楽しそうな子供の声がした。

洗濯物を干しにベランダにで出てみると、アパートの駐車場に、一畳よりゆうに広そうな大きなビニールプールが置かれ、若い父親が小さな息子と娘と遊んでいた。

大きなプールを物置から出して、せっせと膨らまして、水を張って遊んであげるって、愛無しにはできないだろう。素敵な家族だ。

引くのが気持ちいいカードゲーマーが「テラフォーミングマーズ」をプレイする(8/2版)

タイトルの通り、カードをドローすることで快楽を得る体に調教されきっているTCGプレイヤーがボードゲームテラフォーミングマーズ」をプレイしたときの覚書です。

 

筆者がプレイするときのルール

  • 企業は2枚配付して1枚ピック、プレリュードは4枚配付して2枚ピック
  • 初期産出0
  • 初期プロジェクトは5枚をドラフト→逆順で5枚ドラフト→購入

 

TCGプレイヤー的に気持ちいいプレイングとは?

  • たくさんのカードを引く
  • たくさんのカードを使う

盤面を使うほうが簡単に勝てると思われますが、2つのしょうもないこだわりを持ってプレイします。

 

TCGプレイヤー的な戦略

盤面のアドバンテージを度外視した場合

  • プロジェクト右下の勝利点を稼ぐ
  • プロジェクトで産出を上げる
  • プロジェクトによるパラメータ上昇でTRを上げる

という戦略で勝利を目指すことになります。

これらを踏まえ、

  • 木星シナジー(勝利点を持ち、かつ産出やパラメータ上昇を持ったプロジェクトが多い)
  • 科学シナジー木星ほどの効率はないが、たくさん引ける。科学タグN個が条件のカードは勝利点と産出を兼ね備えたプロジェクトが多い)
  • 高コストプロジェクトのプレイ(勝利点と産出増を兼ね備えたプロジェクトが多い)

が「引きながら勝ちやすい」戦術と言えます。

さらに、プロジェクトの連打を狙うこと、また、高コストプロジェクトの多くが宇宙タグを持っている都合上

  • MC増加
  • チタン産出増加

を念頭に置いていきます。

多くのプロジェクトのプレイを目指すため、プロジェクトをプレイするためのコストを割引するカードはなるべく早く使用します(産出増との優先度は臨機応変に調整)

 

TCGプレイヤー的おすすめの企業

次の2企業は実際にプレイして感触が良かったです

クレディコー

高コストプロジェクトは先述の「TCGプレイヤー的な戦術」すべてに適うものが多いので、初期MCが多く高コストプロジェクトのプレイにキャッシュバックのあるクレディコーは最適といえます。

もっとも、20MC払って4MCキャッシュバックされても後半でコスト不足に陥る可能性が高いので、開始1~2ターンのうちにはMC産出を増やすことに専心するのが良いと思われます。

低コストのチタン産出→木星タグ連打で優勝しました。

(ドローとプレイにこだわらなければ、都市設置にもキャッシュバックがあるのでもっと勝ちやすいのかもしれません)

ラクター

初期MCの高さもさることながら、地球タグにはMC産出を増加させるプロジェクトが多いので、地球タグのプレイコスト-3は侮れません。序盤からMC産出を上げていき、中後半に悠遊とTRを上げていきましょう。

 

また、次の2企業は他プレイヤーの様子を見て魅力を感じました

フォボログ

チタンの暴力。宇宙タグのプロジェクトを集められれば、MCとチタンの産出を安定して上げていくことができる。

サターン・システムズ

木星タグのプレイ時のMCの増加はプロジェクト志向のプレイに最適。

 

そもそも

  • 称号と褒章の得点効率は圧倒的なので、プロジェクトより優先度が高いです。銀行王を狙いましょう。
  • ドラフトでプロジェクトのタグが揃わず、プロジェクトの点数で稼ぐのに向かない企業を選ばざるを得ない場合、ドローにこだわらない方がいいと思われます。
  • 逆に、「俺はドローして気持ちよくなりたいわけじゃねえ!」という方も、プロジェクトが揃って先に挙げた企業をピックできた場合はプロジェクトの得点で最後にまくるプランを取ってみてもいいかもしれません。
  • AIセントラル is kami

↓普通のプレイをするなら一読すべき↓

https://teraforian.game-info.wiki/

 

まだまだスルーできない私

今回は、

  • Twitter‪物申すマンだった私の気付き
  • 気付きを踏まえても、私にTwitterは早い

こんな話をする。

私の勘違い(若気の至り)

私は大学生の頃、Twitterでトレンドに片っ端から言及し、何かしら意見を言わずにはいられない人間だった。

端的に言って、Twitter物申すマンだったのだ。

大学生の頃、お受験のための勉強から解放された私は、同じくらいの知的水準でよく似た問題意識の持ち主である友人と語らうのを好んでいた。

そんな中で、二つの価値観が醸成されていく。

①どんなに対立する相手とも本気で話し合ってこそ、良い結論を導き出せる

②思考停止は悪、全ては一度批判的に検討しなければならない

ある思想にかぶれているのが丸出しだが、ここでは触れない。

挫折と反省

そんな信条を抱えたままTwitterを続けて、ようやく私はあることに気付く。

当たり前だが、残酷な事実だ。

  1. 誰とでも話が通じるわけではない
  2. Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しない

「何当たり前なこと言ってんだ」と感じたかもしれないが、こんな当たり前のことを私はわかっていなかった。

①誰とでも話が通じるわけではない

話をしたところで、話の通じない相手というのは存在する。

それは、理解し合う力には差があり、前提となる知識の範囲にも差があるからだ。

私は、特にTwitterにおいて「理解し合う力」には二種類あると思っている。

ひとつは、文章を読んで意味を理解する力。すなわちインプットの力だ。

もうひとつは、自分の思考を正しく文章にするアウトプットの力だ。ここでは相手の知識に合わせて語る力や、分脈に沿った表現をする、いわゆる空気を読む力、「コミュ力」もアウトプットの力に含めたい。

インプットの力は、およそ国語のテストで評価できる能力だろう。

例えば、次のような問題があったとする。

ア~エの中から、次の文章の説明として最も適当な選択肢を選びなさい。

カラスは、日本人には黒い鳥として知られている。

 ア.日本人の多くは、カラスを黒い鳥だと思っている。

 イ.カラスは不吉な鳥とされている。

 ウ.パンダの尻尾は白い。

 エ.外国では、白いカラスが乱獲されている。

テストであれば、正解はもちろんア.である。インプットが正しいかは白黒つけやすい。

 

 しかし、アウトプットが正しいかは判別しにくい。

「カラスって白いよね」という発言にどんな対応をするのが正しいかは時と場合によるからだ。ここで、②Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しないという事実に気付く。

前提となる知識の差、というのは必ずしも優劣の話ではない。物理学者と哲学者のどちらが偉いかなんて私にはわからないが、いずれにせよお互いが専門用語を使って話しては理解し合うことは難しいだろうし、いちいち専門用語を解説してやるのもお互いに面倒だろう。

もちろん優劣もあって、例えば私は物理学者ほど物理に詳しい訳はない。だから私は、物理学者に質問をすることはあっても議論をふっかけることはないだろう。

しかし、自分の知識の範囲において専門家の発言を理解し、議論をふっかけたり攻撃を仕掛けたりできてしまうのがTwitterだ。

Twitterという場に「絶対の正しさ」が存在しない

Twitterをしている人にはいろいろ居るし、「科学的に」「理論的に」「誰かの経験的に」、あるいは「道徳的に」正しいことが全てという共通認識は無い。当たり前のことの筈なのに、私は理解するのにとても時間がかかった。

大学であれば、科学的に妥当とされている論文に反する主張は検証されるべきだし、理論的に正しくない事実は追究してしかるべきだろう。あなたの主催するセミナーであれば受講者の態度はあなたが規定すればいいし、哲学者同士の話し合いなら真・善・美の追究をすればいい。

とはいえ、Twitterは違う。

仮に女子高生が「カラスって白いよね」と呟いていたとして、必ずしも訂正させる必要が無いのだ。

客観的に見てカラスは黒いが、だからといって訂正してやる道理はない。

女子高生をおだてることに執心する野郎どもが「○○ちゃんの言う通り!白い!」と言っていたところで、その下心を糾弾する必要は無い。

もしかしたら病気なのかも? と思った所で、縁もゆかりも無い人間に眼科の受診を勧める必要は無い。

個人主義を前提に回っている世の中で、自分と縁もゆかりもない「間違ったやつ」を正す必要なんて、全く無いと筆者は思う。

Twitterは世界とつながっているから、発言には責任が伴う!」という主張には同意できる。しかし、「だからTwitterで正しさを追求するのは世界のためになるんだ!」と主張するのであれば、私は頷けない。

Twitterの正しくない人間を正すことは、大して生産的ではない。個人は所詮砂漠の砂の一粒に過ぎず、一粒拾ったところでなんの意味も無い。

そもそも、自分の持つ考えが本当に正しいかもわからない。

「カラスが黒い」というのは概ね確かだが、政治信条や価値観については「正しい」と言えるものはあるだろうか? 

前提となる特定の価値観がある集団であれば、正しくない発言というのもあるのであろう。たとえばヒューマニズムに最高の価値を置く集団であれば、残酷な発言は修正すべきだろう。しかし、それは集団の外に適用することはできない。

個人主義と情報発信

ここまできて、一体何を語るべきかわからなくなってしまった。

私としては「Twitterで議論するのは不毛だし、不快な話題をつぶやく・RTする人間はミュートするのが吉。ミュートできないなら生暖かく見守るという『人力ミュート』」という意見を持っているわけだが、それを主張するにしたって大抵の人にとってはおせっかいであることに変わりはない。正しいTwitterの楽しみ方を心得ている人だって居るのだろう。

あるいは、思考停止は悪であり、議論によってよりよい意見に到達できるという考え方は間違っておらず、それを貫けず諦めた私がもう諦めろと訳知り顔で触れ回っているのは、未だにその信条を貫いている人からすれば滑稽なのかもしれない。

とりあえず、Twitterで自分のしていることを否定されたり説教されたりした(気がした)ときには、この言葉を思い出している。

 

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こうの史代(2008 双葉社)「この世界の片隅に 中」P69

FF外から説教されるとひどく不幸な気がするものだ。同時に、私の親切心からのリプもありがた迷惑で、相手からすれば不幸だったのだろう。

鼻をかむのにも使えない記事だが、最後まで読んで何かの参考になったとしたら幸いである。