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入院体験記 その4

意地だけで動いて己の尊厳を守り、半死半生のまま先輩社員の車で病院に戻る。病棟玄関から先は一人で荷物を運んだ。

終業時間が終わってから、河田課長(②参照、直属の上司)、三好課長(労務担当)が病院に来て面談したような気がする。ろくすっぽ医師から話を聞いていないのに色々聞かれ、覚えている範囲で答えた気がする。ところで、医学知識を持たぬもの同士の伝言ゲームで正しい情報が伝わるかは心底疑わしいのだが……。

外が真っ暗になった頃、両親が病室を訪れた。電話で伝えていた通り、脳疾患であることを伝えた。情けないことに、私は両親の顔を見て安心してしまい、心配して根掘り葉掘り聞こうとする二人を「俺も疲れたからそんなこと先生に聞いてくれよ……」とばかりに、かなりぞんざいに扱った。主治医(宮崎先生としよう)から話を聞き、両親もやはりこれからの再発・進行をひどく気にしていた。

最初のうちは私が未熟児であったことが原因なのではないか、両親自身の遺伝に関係しているのではないかといろいろに邪推していた。だが、この数時間で「何も悪いことをしなくても悪いことは起こる理論」を悟った私の方が、「そんなこと考えても仕方ない」と諭していた。尤も私のほうも「次は何の機能が持っていかれるんだ?明日起きたらまた考え事をできるのか?」と気が気でなかったのだが。

両親が、私が寮から持ち込んだ荷物を整頓してくれた。翌日には持ち込めなかった分を持ってきてくれるよう依頼した。

入院後、母も不安だったろうに甲斐甲斐しく父の部屋(勤務地が私の近くだった)と病院を往復して衣服やタオルを洗濯してくれたこと、父が仕事帰りに病室に寄って行ってくれたことは覚えている。母は私を励まし、父は具体的にこれからどうするかを考えてくれた。話した内容の要素要素も記憶にある。だが、入院開始から2人がどんな顔をしていたのかは殆ど覚えていない。はっきり記憶が秩序立てられるようになったのは、どうやら3日後以降らしい。9年間つけ続けている紙の日記を見ながらこのブログを編集しているのだが、なんと両親が地元から来てくれたことが一切記述されていない! 当時の記憶の錯綜っぷり、余裕のなさが伺える。

両親が父宅に帰った後、寝間着に着替えようとして、まだ風呂に入っていないことに気付く。事情を話すと、もう利用時間の終わったシャワーに特別に入れさせてくれた。頭皮の右半分も痺れ、力加減がまるでわからなかった。頭の大きさが左右で違うようだった。

ここからどうやって寝たかはまた記憶がない。